はじめまして、「いが」と申します。
私は地方に住む30代独身フリーランスです。
20代の頃、
・軍隊のような超絶ブラック企業で奴隷労働
・女を下に見る男に出会いすぎて男性不信
という激動の日々を過ごしまして、
「会社」「結婚」という多くの人が乗る
2つの社会のレールに乗るのをやめました。
そこで結婚せず、フリーランスとして一人で生きる道を選び、
最初の数年は順風満帆だったのですが、
徐々に疲弊して稼げなくなるという事態に。
そんな時に始まった、周囲の結婚ラッシュ(みんな会社員!)。
「稼げない」
「自分だけ味方がいない」
そんな猛烈な恐怖に襲われて死にたくなる時もありましたが…
私にはどうしても生きなければならない理由があり、
稼げるフリーランスになるべく、
Webマーケティングを学ぶことにしました。
目標月収は50万円です。
このプロフィールでは、私がどんな人生を歩み、
今の決断に至ったのかを書きました。
「自分は会社員や結婚に向いていない」
「でも、どう生きたらいいかわからない」
そんな、同じような状況で苦しんでいる人の救いになれば嬉しいです。
基本情報

- 名前:いが
- 性別:女
- 生年月日:1990年6月5日
- 職業:フリーランスのSNS運用代行/ライター・編集者
- 特技:出かけると高確率で人に道を聞かれる
- 好きな言葉:諸行無常
学校や会社に馴染めない異端者
半強制イベントを堂々サボって漫画三昧。我が道を行く子ども
私はごく普通のサラリーマン家庭に生まれました。両親・私・弟の4人家族です。
公園よりも、家の中で遊ぶことが好きな内気なタイプながら、
やりたいと思ったことにまっしぐらになる子どもでした。
小学校低学年の頃から、
イラストや漫画、小説、詩などの創作が好きで
時間を忘れて創作活動に没頭。
自分の作ったもので人に楽しんでもらえることが
何より嬉しいと思っていました。
特に象徴的なのが、
地域の親子が集まる「子ども会」をサボっていた話。
私の出身地の群馬県では「上毛(じょうもう)かるた」という
群馬の名物・名所をテーマにした「かるた」があります。
地元の子どもたちは、この上毛かるたを
子ども会で半強制(という名の、実際は強制)的に教わることになっていたのですが、
その当時、全く興味の持てなかった私は、子ども会を欠席。
子ども会に行かなかった時間には、
- 大好きな漫画を夢中で読む
- 自分でも漫画を描く
など、
とにかく自分の好きなことに打ち込む時間を大事にしていました。
両親とも「好きなことを自由にやってみたら」というスタンスだったため、
小学校の低・中学年ごろは伸び伸びと育っていきました。
ちなみに、勉強は体育以外、割とソツなくこなせる方でした。
(引きこもりなので運動はダメでした笑)
集団からはみ出たら「死ねよ」と言われた

小学校の高学年になると状況は一変。
・先生から作文や絵を褒めてもらった
・音楽の授業でピアノの伴奏を担当した
・テストの成績が良かった
など、私がちょっと目立った動きをすると
クラスメイトからいじめられるようになりました。
主に、存在を否定するような言葉の暴力や、
集団での無視が行われました。
クスクスと笑われながら、
「死ねよ」と大勢に言われる毎日。
深く深く傷ついた私は、
学校に行こうとすると恐怖で動悸がして、手足が震えるようになり、
一時期、学校に行けなくなりました。
私以外にも、ちょっと目立ってしまって、
クラスのボス的な女子に目を付けられた子が
順番にいじめられて、不登校になっていく現象が発生。
その時、「みんなと同じ普通の人」ではない
異端者は排除されるんだと、
人間の怖さを11~12歳ながら身をもって知りました。
この「目立つといじめられる」経験は中学まで続き、
高校時代は集団からはみ出ないように生きました。
「中の下」くらいの無難なグループに所属して、
本当に気の合う友人とだけ付き合い、
目立ちすぎないようにして、
スクールカースト上位の人たちに気を遣う毎日。
おかげでいじめはなかったけれど、
「自分らしくない自分」でいることも、また辛かったのでした。
mixiの日記にファンがついた

高校を卒業すると上京し、東京の有名私立大学に進学。
大学時代は、小学校~高校までで感じていた窮屈さから一気に解放され、
社会に出るまでの間で一番楽しかった時期となりました。
それまでは「普通の人である」ことが
クラスに受け入れられる条件でしたが、
大学ではむしろ、
- 個性をバーンと出して、目立っている人がかっこよくて面白い
- どこにでもいる量産型はつまらない
という空気にガラリと変わりました。
大学は、決まった「教室」「クラスメイト」という枠がない分、
「そこからはみ出たらアウト!」という
価値観もあまりなかったのかも知れません。
当時、流行っていたmixiに日記を書いたら、
更新を楽しみにしてくれる友人がたくさんできたり、
イベント用にパンフレットを作ったら
すごく面白がってもらえたり、
自分が作ったものを受け入れてもらえて、
楽しんでもらえたことが何よりも嬉しくて、
「生きてきて良かったー!!!」と心から思った時代でした。
「正しい就活生」になれなくて

そんな私に、「就活」という次なる壁が現れます。
みんなが同じ服装・髪型で、
採用担当者に好かれる、爽やかな学生を演じて。
工場で作られたみたいな量産型就活生になっていく
周囲の人を見て、内心、気持ち悪いなと思っていました。
でも、これから生活していくには
自分もやるしかないんだと、
就活を渋々スタート。
本や文章など、「何かを表現して人に楽しんでもらうことが
好きだから」という、とても単純な理由で
出版社や広告代理店を中心に応募しました。
ところが、求められる人物像を演じようとしても、
本来の自分と合わない回答をしようとすると、うまく話せなくなり、
「採用担当者が好む、理想の就活生」になれませんでした。
「天気がどんよりとしていても、
仕事へのモチベーションは影響されず、
いつも通り働けますか?」
という適性検査の質問があった時も、
私の答えは「いいえ」なのに
「はい」と答えなければいけない。
そういう、人を特定の枠に押し込める空気が嫌で嫌で。
そんな調子で社会性に乏しかったので、
50社くらい受けて内定ゼロ。
「行き場所がない!」という不安で自暴自棄になり、
とうとう、全く興味のない会社に内定してしまいました。
そして、入社間もなく、適応障害になりました。
その後、「私の人生、本当にこれでいいのか」と思い直し、
宣伝会議の「編集・ライター養成講座」に働きながら参加。
卒業制作の取材記事が受講生70名の中から
最優秀賞を獲得して、雑誌に掲載。
その実績をもとに、
雑誌を作る都内の編集プロダクションへの転職を果たしました。
大学卒業から1年と経っていない、23歳の時でした。
就活に失敗したものの、力づくで方向転換して
やりたい仕事への道を拓いたのでした。
軍隊のような会社で奴隷生活

入社した編集プロダクションは、
大手出版社の雑誌制作を下請けしている会社でした。
子どもの頃から好きだった
本や文章の世界に関われる、憧れの出版業界。
有名な雑誌制作の一端を担えることにやりがいと喜びを感じました。
一方で、会社の環境は窮屈そのものでした。
・朝は社員全員で社訓を大声で読み上げる
・部屋に出入りする度に大声で挨拶する
・メールのやり取りは、メール専用のパソコンまでわざわざ移動する
・昼食は絶対に他の社員と一緒に食べる
など、トップダウンで厳格に決められた
軍隊のようなルールが膨大にありました。
「それ、要る?」と思ってしまうような
明らかに不要で非効率な、アホらしいルールだらけでしたが、
「従う」しか選択肢がなく…
毎朝、
「考えろ!決断することこそが仕事なのだ!!!」
といった社訓を思考停止で叫ぶしかありませんでした。
また、労働時間は朝から終電まで、残業代なしで1日15~16時間。
睡眠を削って働くのが暗黙のルール&美徳のような空気があり、
過重労働で心身はボロボロ。
他の社員もみんな過労で、いつも誰かが誰かを怒鳴り散らしていました。
タクシー代はもちろん出ないので、
終電を逃した時は深夜の都内を1~2時間、歩いて帰りました。
一応、肩書きは正社員。
会社にいるおかげで、給料(超薄給でも)が毎月振り込まれて、
社会保険も払ってもらえる。
税金の手続きもしてもらえる。
でも、そうして社会から守ってもらうための代償として、
この生活ではあまりにも奴隷のよう。
体調を崩し、約3年弱で退職しました。
この会社は極端だったと思いますが、
どんな会社でも多かれ少なかれ
理不尽でも従わなければならない場面はあるだろうと
転職の意欲は消滅。
これまでずっと集団や組織の中で生きづらかった私が
どう生きていけばいいのか…と途方に暮れていた時。
雑誌を一緒に作っていた外部のライターさんをきっかけに
フリーランスという働き方を知り、
「それだ!!!」とピンと来たのです。
超ブラック労働に懲りて、
会社で働くという選択肢を消した時、
フリーランスで働く可能性が浮上しました。
男女関係や結婚に「女を下に見る意識」を感じた
「いや、会社で働けなくても、女性なら結婚して、
専業主婦とかパートとか、そういう可能性もあったんじゃない?」
と思う方もいるかも知れません。
ですが私、「会社」だけでなく「結婚」も選べなかったんです。
この章では「男女関係や結婚」という軸で、
改めて私の半生をざっと紹介します。
助け合う両親への憧れと、正月の男尊女卑

私の両親はとても仲が良く、
特に父は、母を大事にする姿を見せてくれました。
仕事以外の時間は、できる範囲で家事をしていましたし、
小さな頃、私と弟が、母に家事を丸投げして遊んでいると、
父が「ママはお前らの召使いじゃないんだぞ!」と怒鳴ったことも。
それほど母を大切にしていたのです。
将来はこんな家庭を築きたいなと、子どもながら憧れていました。
そのため、お正月に祖父母や親戚が集まった時、
男性陣は暖かいこたつでお酒や料理を楽しみ、
女性陣は寒い台所で働いている…という景色に、
違和感を覚えて育ちました。
(親戚のことは好きなんですけどね!)
ホテル連行にバレンタイン強制。社会に出たら男の闇を見た

子どもの時は男女平等に育てられてきて、
性差はそれほど感じずに生きてきましたが、
大学生ごろから、女というだけで
下に見られる経験がドッと増えました。
・盗撮
・セクハラ
・ストーカー
・追いかけ回す
・すれ違いざまに体当たり
・ホテルに連れこもうとする
・容姿を見て「可愛い・ダメ」の判定をする
など…
女性を心がある人間ではなく、物や商品のように軽く扱い、
自分の欲望やストレス発散をする
男性たちと数多く遭遇しました。
この憤りをX(当時のTwitter)でつぶやいたら、
男性から批判のコメントがついて炎上しそうになり、
仕方なく投稿を消したことも。
また、先にも触れた編集プロダクションでも、
・お茶くみは女性の仕事
・トイレ掃除は、男子トイレも女子トイレも女性が担当
・バレンタインには女性社員は全員、社長にチョコを献上
といった男尊女卑ルールがまかり通っており、
私もそのルールを強制されました。
妊娠している女性社員の横で
平気でタバコを吸う男性社員も大勢いました。
10万円の中絶費用。元カレは3万円しか払わなかった

極めつけは、子どもを産みたくないと思ってしまう出来事も。
重たい話で恐縮ですが…
私、22歳の時、
元カレとの間で望まぬ妊娠をして、
妊娠中絶を経験しています。
吐きそうなほどの罪悪感にかられながら手術をして、
罪のない命に別れを告げました。
費用は10万円。
元カレは、「これしか出せない」と3万円しか払いませんでした。
震えながら泣きながら手術を受けた私は、7万円払うことになりました。
実は、先ほど書いた、
宣伝会議の講座で最優秀賞を取った記事。
これは実は、自分の体験をもとに
妊娠中絶について書いたものでした。
「生きられなかったあの子の分も、私は頑張って生きねば!」と
思っていたのです。
記事が雑誌に掲載されたことを知った元カレは、
「中絶したと周りに知られたら、
自分のキャリアに傷がつくから、そういうことやめて」
と言い放ちました。
この男もまた、女性を心も痛みもある人間ではなく、
単なる性の対象として軽んじているのだと目が覚めました。
元カレや迷惑行為をしてきた人たちが
男性のすべてではないと、
もちろん頭ではわかっています。
むしろ少数派かも知れません。
しかし、既婚の友人から
・つわりで辛いのに、旦那が飲み歩いていて、自分だけ苦しんでいる
・子どもが泣くと旦那は「ママ、泣いてるよ」と言うだけで、自分はスマホゲームをしてる
といった話を聞くこともあり…
周囲の結婚に焦って婚活アプリに登録するも、会ってみた男性からは
「俺に付き従ってくれて、子どもを産み育ててくれて、
でも仕事もして、家計を一緒に支えてくれる女性がいいな。
あ、でも俺を追い越さないでね。俺が上でいたいから」
という思いが言葉の端々から伝わってきたり…
結婚・妊娠・出産の道を歩むと、
自分の存在を軽んじられて、
苦しむかも知れないと怖くなりました。
絶対そうなるわけでは決してなく、
女性を人として尊重してくれる男性も当然いること、
結婚して幸せな人がたくさんいることもわかっています。
憧れるほど仲の良い両親を見てきたからわかります。
でも、私は男尊女卑がまだまだベースになっているこの社会に、
女性の苦しみに気づかない男性がいることに、
すっかり失望して男性不信に。
私の父が特殊なだけだったのかも知れないと、
結婚への意欲も消えていきました。
では、結婚・妊娠・出産をしない人生ならば、何をするか。
「そりゃもう、仕事しかないでしょう!」と、
フリーランス人生を歩んでいくことになるのです。
自分らしく生きる自由を手に入れた

26歳で会社を辞め、開業届を出して
フリーランスのライターになりました。
会社員時代の雑誌制作の実績を手に、
ライター交流会で名刺交換をしたり、
業務委託のメンバーを探している編集プロダクションに応募したり。
すると、Webメディアの記事を中心に、
取材・執筆などをどんどんご依頼いただけるようになりました。
「いただける仕事は何でもやる!」というスタンスだったので、
新規案件の声もかかりやすく、
編集者(ディレクション)の立場にも引き上げていただけることに。
- 人間的で健康的なスケジュールにできる
- やるか、やらないかを自分で選べる
このように仕事を進めやすい環境を自ら選べることにも
毎日「最高~!」と思っていましたし、
仕事を通じて知り合ったフリーランス仲間やクライアントには
仕事に対して同じような価値観の人が多く、人間関係も良好。
会社員だった頃の働き方のストレスが一掃されて、
大学生以来、初めて「自分らしい生活をしている!」と
ワクワクする日々を送っていました。
フリーランス開始時からフルリモートの生活だったので、
2020年からのコロナ禍も、
ありがたいことに問題なく通常稼動。
「オンラインで仕事をする」ことが
世の中的に一般化したのを「チャンス!」と捉え、
コロナ騒動の中、
東京から奈良へ単身、地方移住も実現しました。
(奈良には、仕事をきっかけにハマりました)
時間や場所を選ばずに働けるフリーランスであること、
独身で身軽であることの恩恵を受けて、
自分のやりたいことを追求する生活を謳歌していました。
周囲がレールに乗って、安定を手に入れていく危機感
作業に疲弊し、稼げなくなっていった

フリーランスになって最初の1~3年は
「なんでもやる!」という
熱意やエネルギーにあふれまくっていました。
自分の手を動かして記事を作り続ける
作業的な仕事を何時間でもこなせていて、
普通に生活できるくらいは稼げていたのですが…
4年目くらいになり、
作業をこなし続けることに
疲弊している自分に気づきました。
また、活動を続けるにつれ、
「ライターは誰にでもできる仕事」と
言われてしまう場面にも何度か出会い、
モチベーションも低下してしまっていました。
そこで、モチベーションを維持しつつ、
疲弊しないようにと案件数を絞った結果、
当然、稼ぎは減少。
何でもお願いできる、
使い勝手の良い人ではなくなってしまったため、
クライアントとも長続きしなくなっていきました。
順調に思えたフリーランス生活は
低迷期に入ってしまいました。
病気になっても一人。自分だけ味方がいない恐怖

そんな中、30代に入ると、
弟や従兄弟、年齢の近い身近な友人知人などがどんどん結婚。
みんな会社員なので、
「会社」「結婚」という2つのレールに乗って、
安定や社会的地位を手に入れていきました。
学生時代の友人のLINEグループで、
未婚者が自分だけになったのに気づいて、
親族の集まりで、
自分だけが誰ともペアになっていないのを見て、
自分だけ唯一無二の味方がいない
猛烈な恐怖に襲われました。
この先、体調を崩しても、病気になっても、
貯金が底をつきそうになっても、一人。
その道を選ばないことに決めたのは自分なのに…
毎月入る給料と、一生のパートナーを得て、
「これで自分の人生、もう大丈夫。もう上がり」という
顔をしている人を見るのは、とても辛かったです。
誰とも結婚しない未来の
本当に怖さをやっと体感しました。
レールに乗れなくても、残酷にも人生は続いていく

稼げない。
一人でいろいろ何とかしなければならない。
現状のヤバさをようやく自覚し、
この世から消えたいくらいの疎外感を覚えました。
この命を自分で終わりにした方がいいのではと
考える日もありましたが、
身近な人の悲しむ顔が浮かんだので、やめました。
何より、
22歳の時にお別れしたあの子の分も、
私は生きなければならない。
生きるには、お金が要る。
生活費、社会保険、税金。
「独身税」なるものが導入されるともいわれている。
しかも、実は私、30代に入ったら
若くして高血圧になってしまったので、
病院や薬の費用も数十年、
生活費に上乗せされるのかも知れません。
親の介護や看取った後のことも、
自分が老いた時にも、お金は必ず必要になる。
それなのに…
一人で生き抜いていける経済力も自信もない。
普通の人が頼りにしている
「会社」や「結婚」に頼らずに
生きていこうとしているくせに。
老後はもちろん、直近の未来でさえ
お先真っ暗に見えました。
社会のレールに乗れないのなら、
自分でちゃんと稼げるようにならないと、
本当に、本当に、本当に、人生詰む。
33歳ごろから、こんな思いで
胸を締め付けられる日々が続きました。
生き抜く経済力をつけるため、スキルアップを決意
SNS運用が楽しくて、新たな世界へ

自分には何ができるだろうかと模索を続けていた時、
移住先の奈良で、
SNSでの奈良観光PRを任されるという出来事がありました。
そこで、SNS運用を見よう見まねでやってみたところ、
発信を見て、奈良に来てくれる人が現れたのです。
この経験をクライアントに伝えたら、
「うちでもSNS運用をやってほしい!」と
SNS運用プロジェクトが開始。
小さいながら、お問い合わせの実績を作ることができました。
「何かを発信して、人に楽しんでもらう」ことが
幼い頃から好きだったからでしょうか。
人の反応がダイレクトに現れるSNSのお仕事が無性に楽しくて、
「今後これをもっと極めていきたい!」と思うように。
ところがその後、思うように運用の成果が出せず、
案件終了の危機に陥ってしまい、
私は決断します。
「SNS運用が学べるスクールに入ろう」と。
起死回生のカギは、あのブラック企業の社訓にあった

そうして入会したスクールでは、
SNS運用のノウハウだけでなく、
フリーランスとしての心構えや
仕事の取り方についても改めて学びました。
すると、
・私が作業に疲弊して稼げなくなったワケ
・ライターの仕事を軽視されてしまったワケ
が、わかりました。
それは、情報を発信する仕事のうち、
手を動かして文章を作るという、
ほんの一部の仕事にしか関われていなかったからです。
会社に「社長>部長>次長>係長」といった序列があるように、
ビジネスの世界には階層があります。
高い位置にいるほど、
考えて決断する立場になり、
責任が増して、報酬も高くなります。
低い位置の人は、
上の人が決断したことを実行する立場で、
責任は少ないため、報酬は低くなります。
この「考えて決断する」ことが仕事の本質で、
これができる人にお金が巡っていくということに
ようやく気づけました。
ちなみに…
この「考えて決断することが本質」という表現、
前の文章でも出てきたのにお気づきでしょうか。
そう、以前勤めていた超ブラック企業の社訓です。
毎朝、嫌々読み上げていた社訓が実は、
ビジネスでうまくいく秘訣を教えてくれていたのです!
そこに気づかずに、勢いで会社を飛び出したから、
疲弊してしまったというワケでした。
(辞めなかった場合でも、別の意味で疲弊してたでしょうけどね!笑)
上に行くには、学ぶしかない

長いフリーランス歴の中で、
私はずっと階層の底辺にいて、
しかも「編集・ライティング」の
スキルしか持っていない状態でした。
これでは低単価案件をかき集めても、
延々と続く作業に疲弊して、稼げなくなるのは当然。
できる仕事の範囲が狭いのなら、
依頼の機会が減るのも当然。
そうして自分の課題が浮き彫りになった、正にその頃。
スクールの中で「Webマーケティング」を総合的に
学べるコースが始まることに。
クライアントから求められる存在となり、
上の階層に行くために必要な
「マーケティング」と「幅広いWebスキル」を学べるコースです。
会社や結婚に頼らず生きられる自分になるには、
ここにかけるしかない、と思いました。
受講費用は決して安くはありませんでしたが、
親が私の結婚資金などに貯めてくれていたお金から
どうにかひねり出して、支払いを完了。
あとは、自分が行動するのみ。
レールの外の世界を、自分らしく豊かに生きていく

Webマーケティングを学び、
私が1年後に目指していきたいのは
月50万円稼げる状態です。
稼いだお金の使い道はこちら。
・30万円:現役時代の生活費に
・20万円:約30年間、資産運用→60代までに資産9,000万円
資産9,000万円は、
老後の生活費、老人ホーム入居費、医療費、葬儀代などを
ChatGPTに聞いて、
「自分ならこのくらい要りそう…」と想定した額です笑。
このようにお金を稼ぎ、やりくりして、
現役時代も老後も、
自分の力で豊かに暮らしていきたいと思っています。
「会社」「結婚」という社会のレールに乗らなくても、
自力で稼ぐ力があれば、
・パートナーや子どもがいない分、やりたいことを存分にできる
・独身税が導入されても「社会貢献してやんよ!」と気持ちよく払える
・甥っ子や姪っ子ができたら、たくさんお年玉をあげられる
・両親や自分の老後費用にも悩まずに済む
こんな風に、自分らしく豊かに生きていけます。
このブログでは、私がそんな未来に向かうまでの
成長記録を発信していきます。
私と同じように、社会のレールに乗れずに苦しんでいる人が、
その記録を参考にして学び、
現役時代も老後も、自分らしく豊かに暮らしていけるように。
世間の考える「正解」ではない自分に、
自信を持てるように。
そんな自分で生まれて良かったと思えるように。
枠からはみ出たら人生詰んでしまう、
あまりにも世知辛いこの社会。
むしろ思いっきり枠をはみ出して、
全力で味わいきり、楽しみきってやろうじゃないですか。
今までの辛さは、自分にとっての
本当の生きる喜びを見つけるための通過点。
30代社会不適合オンナの逆転劇、始まります。
応援していただけると嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!